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すけっち
通信No.4(2007.5)より

戦後の混乱から少し落ち着きつつあった昭和24年の春、私は就職も決まらぬまま京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)デザイン科の卒業式に出席しました。学友達は大企業や学校の教員、自営業など安定した職場が決まり一安心という事で式後の談笑には覚悟はしていたものの少なからず焦りを感じました。
  それには理由があります。一般教養の英文学の授業で現代英文学研究者、小誌「映画芸術」の創刊者で映画評論家(京都大学文学部哲学科卒)の大変ユニークな清水 光先生との出会いから始まります。
  英語は我々旧制中学半ばで戦争が悪化し、勉学どころか学徒出陣、勤労動員で軍事工場に送られ、まもなく終戦を迎えたのです。勿論そのことを先生は御承知で授業内容を変えられ後半は「映画と文化論」になり以後我々学生にとっては大変楽しい授業になりました。又当時の京都学生映画連盟に加入し映画監督や俳優で若き日の笠 智衆さんらをお招きしてシンポジュームを開いたりしました。
  私は清水先生の影響で映画にのめり込み将来この道への希望を夢見ました。一方演劇活動に参加していた私は授業料や映画鑑賞料の資金作りにアルバイトに励みました。主に舞台美術関係でした。京都美大に「アトリエ座」という伝統ある演劇部がありそこに所属しました。乏しい予算の中、自主公演もやりました。京都の各大学の演劇部との交流で舞台装置照明等手伝いました。当時「俳優座」「文学座」「劇団民芸」等のプロの新劇が活発に動き始めていた時代です。
  あるとき「アトリエ座」に朝日事業団より連絡があり劇団民芸の『炎の人ゴッホ』(滝沢 修、宇野 重吉主演)の公演を京都でやる事になり劇場探しの結果、祇園会館が決まり舞台装置を手伝ってほしいとの依頼でした。東京公演の舞台より祇園会館は一廻りせまいので、伊藤熹朔先生の舞台図面をもとに縮小画面を描き大道具仕事からバックの描き込み、背景に至るまで全工程でした。我々「アトリエ座」の連中で徹夜の連続で仕上げました。これは我々にとって大変有意義な経験で勉強になり有難いアルバイトでした。
  こんな大仕事を怖れず挑戦出来たのは当時の「アトリエ座」には優秀な人材が居たからです。彼らは卒業後、社会に出て大活躍した面々です。顧問には甲斐荘 楠音(日本画家、映画衣装家)吉川 観方(日本画家、風俗史家)吉田 義夫(俳優、日本画家)、そして学生たちは西山 正輝(大映映画監督)橋本 潔(版画家、映像デザイナー)緒方 規矩子(舞台衣装デザイナー)板坂 晋治(舞台装置家、大阪芸大教授)水速 信孝(NHK美術デザイナー)上記の四名は後々それぞれ伊藤熹朔賞受賞。西村 恭子(西武重役、西洋環境開発)粟辻 博(テキスタルデザイナー)西村 恭一(洋画家、元“ワコール”重役)田中 一光(グラフィックデザイナー文化功労賞叙勲)岡本 馨太郎(建築装飾デザイナー)松本 正司(彫刻家、京都末生流家元)中村 宗哲(千家十職、塗師)宮川 泰(作曲家)柳原 良平(元“サントリー”イラストレーター)光藤 俊夫(建築家、元“ 竹中工務店”デザイン部長)等々の連中です。
  この間でも私は映画に熟中していました。戦争敗戦で打ち沈んでいた日本人の心を癒すため国策としてアメリカは明るく楽しい映画を数多く封切って来ました。その中には素晴らしい作品もありました。同時に各国の戦前戦後の映画も輸入され、日本映画も復興してきました。占領下の時代劇の戒禁もとけ娯楽の花形として映画一色でした。それに対応すべく映画館も増えてきました。私はその時期まだ進むべき道に迷っていました。それは演劇活動への魅力も捨てがたく悩んでいました。



  そしてある日の夜、街で雨に降られ雨宿りで入った映画館で見たフランス映画に感動し、映画入りを決断しました。その作品は男の友情と失恋、失意をフランス北部の港町をバックにムードたっぷりの映画『商船テナシチー』(1934年)でした。監督はジュリアン・デュビビエ。以後私はデュビビエファンになりました。早速映画界入りの準備をしますが当時映画各社とも定期採用がなく、先輩が大映撮影所や東映の前身の東横撮影所に居られ尋ねました。
  丁度その時期に卒業式を迎えたのです。縁故をたよりに待つこと約2年、アルバイトをしながらの厳しい生活でした。
  そしてやっと昭和27年独立プロの美術助手としてこの道をスタートします。恩師清水先生に報告に行きました。今もその時の先生の優しい笑顔が忘れられません。
  以後、近代映画協会、現代プロと東京生活が続きましたが昭和29年家庭の事情で京都に帰り東映京都撮影所美術助手として契約します。時まさに時代劇映画の全盛期で太秦界隈の各撮影所は戦国時代の様相でした。東映京都はスターシステムによる娯楽時代劇に人気が集中して映画館は大入りでした。年間60本の製作で昭和35年に第2東映が発足し本数は倍加し、今では考えられない驚くべき制作体制に現場スタッフは勿論当然の事で、所長以下管理職の人々も歩くなんてとんでもない、「走れ!走れ!」の毎日でした。日曜祭日も無く徹夜作業は当たり前で不満も出ず、みんなが目的と希望を持って創る楽しさに過酷な作業を精神力で克服したのでしょうか?その時私はなぜか疑問と矛盾を感じた事を覚えています。昭和30年以降映画産業はピークを迎え疾走していきます。
  今現在、私は東映にお世話になって約五十数年経ちました。娯楽作品一筋でした。でも芸術作品や文芸作品にあこがれ、ジレンマに落ち入った時期はありました。ある時それにふさわしい作品を独立プロより誘われた事がありましたがなぜか?お断りしました。
  そして昭和60年チャンスが来ました。宮尾 登美子原作の『序の舞』でした。美術監督としてはぜひやりたかった作品で参加出来て幸運でした。京都美大の大先輩である女流画家 上村 松園先生の半世紀に渡るドラマで監督は東大美学卒業の中島 貞夫さんで、この作品への思い入れは大変なものでした。「一筋の髪の毛を如何に描くかのこだわりから、ヒロインの絵の取り組は始まる」のコメントで始まり「ドラマの舞台である京都のディテールを如何に再現するか明治から大正にかけてのヒロインの住む御幸町四条上ルの家並み、うなぎの寝床といわれる細長い土間をもつ京都特有の家屋の中での暮らしを、そしてそこに生きた母と娘の揺れ動く心のひだを、ヒロインの絵画への挑み、男たちの交流を横軸に母と娘との愛憎を縦軸に展開する」これが演出メモです。私たち美術スタッフはこの異常なこだわりから出発する。
  重要なポイントとして第1に女流画家「津也」(上村 松園の幼名が島村 津也です)の生まれ育った葉茶屋の表通りを忠実に再現すること。第2に「津也」の少女期よりシナリオの最後を飾る文展出品作までの全作品(日本画)をどの様に忠実に模写製作していくか、その他難問題が山積みで苦労の連続でした。
  資料収集から始まり京都の明治から大正に至る画家達の生涯を綴った「京都画人伝」の上村松園項を参考に追求していきました。
  ポイント第1の問題は幸運にも撮影所近くの北山を借景出来る理想的な空き地を探し、御幸町四条上ルの葉茶屋の表通りを予算の許すかぎりのロケセットを組みました。私の少年時代に住んでいた中京区の典型的な京住宅を参考にしました。
  葉茶屋の内部は撮影所のステージの中に組みました。
  第2の問題である絵画制作は、京都芸大講師の日本画家にお願いし、模写チームを組んでもらい当時の手法を試みて丁寧な手間のかかる製作でした。原画に匹敵する実に見事な作品に仕上がりました。監修は当時の美術部の石原氏です。又冒頭のタイトルバックは京都の東山三十六峰を墨絵の絵巻物にして直接それにタイトル字を描き入れました。私としてはこれほど京都にこだわった仕事はこれが最初で最後でしょう。一昔前の京都の良さに思いを寄せた大変やりがいのある作品でした。
  この作品は撮影監督の森田 冨士郎氏の見事な技術と感性に助けられ感謝しています。二人はこの作品で第38回の日本映画技術協会の「技術賞」を頂きました。懐かしい思い出です。
  この作品のロケハンで数十年振りに京都の街をくまなく歩きました。特に私の育った二条通り室町界隈(京都の友禅関係の家並みが並ぶ歴史的な景観)の変豹振りに愕然としました。そして現在の京都のますますの変貌振りに憂いています。

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