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美術監督協会


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すけっち
通信7(2008.12)

丸茂 孝 平成18年4月から12月末まで国立近代美術館フイルムセンターで
「生誕百年 水谷浩仕事展」「シナリオ作家新藤兼人作品上映67本」
「没後五十年溝口健二再発見」と計百本余の作品回顧上映を開催、此のレセプションに招待され、且つて日本映画の黄金時代に此の3巨匠のスタッフとしての私の青春と映画人生の全てがあった事に感慨無量の想いだった。
生来画家を志望していた私が映画美術に投じたのは、イメージの中の絵をそこに再現出来る作業にひかれたからであった。そこにはステージという巨大なカンバスがあって、現実とイメージの交錯のなかで絶えずフイルムに描き続ける事に興味があった。

 
当時(昭和13年)美校(現在の東京芸術大学油絵科)の3年の時、美校の先輩の水谷浩氏と知り合い、私が佐伯祐三の画集でパリーの裏街の絵の詩情に感動して以来、建物の絵を描き続けている話をした処、大変共鳴されて「僕も美校在学中に松竹の美術部に入ったのだから、君も入れ!」と強引に口説かれて新興キネマ大泉撮影所の美術部へ入社した。
 初めて描いたセットデザインが一夜にしてステージ一杯に展開されて、実在の建物として造型された喜びはタブローの制作では味わい得ぬ感動を覚えた。

当時の美術部は人手不足で、未だシナリオを書き乍ら美術部員だった新藤兼人(現在映画監督、脚本家)と2人で夢中でセットデザインを描き続けていた<昭和14年第一回美術監督作品『愛の記念日』伊奈精一監督>
松竹が特作プロ作品として『残菊物語』の制作が決まり、水谷氏が京都へ出向され、半年に渉った『残菊物語』の完成試写を観た時には、その絢爛たる溝口監督の演出と水谷美術監督の美事な造型と、その展開に圧倒的な感動を覚え、私は続いて制作準備に入る『浪花女』への参加を熱望して新興キネマに辞表を出して京都に飛んだ。昭和15年美校は卒業したが兵役が待っていた。

 『浪花女』に続いて制作に入った『芸道一代男』も歌舞伎と云った日本の伝統の美と様式を、その生活への凝視と云った視点から捕えた演出に答え、時代、風俗を厳しく考証し、又ワンシーン・ワンカットの長い凝視に耐えるセットの構成に完璧を期した。私は此の仕事を通して映画美術への情熱を燃焼して、溝口、水谷の両巨匠に依って映画美術に開眼した。

 12月末兵役徴集が来た。期日一杯まで撮影現場で頑張って入営。即中国へ出征、更にニューギニア諸島へ転戦、本隊は全員玉砕。近くの孤島に上陸した中隊は孤立し、食料弾薬の輸送は断たれ2年間、餓死寸前に終戦。九死に一生を得て帰還した。内地では食料も配給で体調は回復せず困窮する。
 敗戦による惨憺たる破壊と焼土の中に奇跡的にも撮影所だけがほとんど無傷で残っていた事は映画にとって全く幸運な事だった。激動する時世の中で大きな困難を克復し乍ら、幾多の名作を産み、物価の高騰と深刻化する生活苦の中にあって映画は唯一の娯楽の王者になっていった。

 昭和25年制作の黒澤明監督の『羅生門』が初めての国際映画祭出品、最高の栄誉を受け海外に向っての日本映画の突破口をつくった。
昭和27年同じくヴェネチア国際映画祭で映画『西鶴一代女』によって溝口健二監督が国際監督賞を受賞。翌昭和28年同じくヴェネチア国際映画祭で溝口健二監督作品『雨月物語』が最高銀獅子賞を受賞。ベルリン国際映画祭で五所平之助監督作品『煙突の見える場所』がグランプリ受賞。カンヌ映画祭で吉村公三郎監督作品『源氏物語』が撮影美術賞を受賞。翌昭和29年カンヌ映画祭で衣笠貞之助監督作品『地獄門』がグランプリ受賞。ヴェネチア国際映画祭で溝口健二監督作品『山椒大夫』と黒澤明監督作品『七人の侍』が銀獅子賞。ベルリン国際映画祭で黒澤明監督作品『生きる』が銀熊賞受賞。昭和30年英国エジンバラ国際映画祭で溝口健二監督の『雨月物語』が最優秀作品賞受賞。翌昭和31年ヴェネチア国際映画祭で市川崑監督の『ビルマの竪琴』がサン・ジョルジュ賞受賞。更に此の映画祭過去5年間の受賞作品中最高作として金賞を受賞。此の様な海外への出品作による相次ぐ受賞は、その作品が同時に最高の芸術作品であり得た時代は素晴しかった。そして日本は世界最高の芸術映画国となっていった。

 戦後のインフレ的景気と戦時中の緊縮気分から解放された反動もあって映画界は未曾有の活気を呈して、上映作品の本数は絶対的に不足していたので独立プロダクションへの需要も急増していた。此の様な状況の中、松竹で活躍していた吉村公三郎(映画監督)、新藤兼人コンビは会社のメロドラマ一色の企画に反発して、会社を飛び出し独立プロダクション「近代映画協会」を設立。
 最初は大映と契約して『偽はれる盛装』『愛妻物語』『源氏物語』をユニット作品として制作し、続いて『原爆の子』『夜明け前』『縮図』と云った企画の制作を提出して拒否され自主制作でなければこの壁は破れないと云う事で「自分達が創りたいものを創ろう!」と同志を糾合し独立プロとしての完全な体制を組み、私は美術監督として招かれた。

 昭和27年自主制作第一回『原爆の子』は初めて原爆を主題にした作品として興行的にも成功し、海外でもイギリス、チェコスロバキア、ポーランド、フランス等で平和賞受賞。続いて『縮図』新藤兼人、『夜明け前』吉村公三郎、
『女の一生』新藤兼人、『千羽鶴』『足摺岬』吉村公三郎、『どぶ』新藤兼人、 『若い人たち』吉村公三郎、『狼』新藤兼人、『愛すればこそ』吉村公三郎、『女優』新藤兼人、『美女と怪竜』『銀座の女』吉村公三郎、『銀心中』『流離の岸』『海の野郎ども』『第五福竜丸』新藤兼人を制作。『原爆の子』以来制作を続けて来たが栄光は永く続かなかった。数あった独立プロも次々と消滅していった。

 昭和33年『第五福竜丸』の頃は赤字を背負って窮地に陥っていた。このプロダクションの危機を乗り越える為に新藤個人の350万円の制作資金で最低限13名のスタッフを構成、合宿によるオールロケーションによる『裸の島』の撮影を決断。「創りたいものを創って討ち死にすれば本望だ!と云う覚悟の勇断だった。シナリオにはセリフがなかった。徹底的に映像だけで全てを描いてみようと云う試みだった。」(“新藤兼人私の足跡”より) 「瀬戸内海の小島で芋畑を作って暮らしている一家の物語であり、隣の島の井戸から桶で水を汲んでこの島の丘の上の畑まで運ぶと云う単純な作業が果てしなく繰り返されるのがシナリオの全てであった。そこには人間の生き方の根本としての労働の象徴として天秤棒のしなうのを撮った。労働のリズム、命のリズムだ。この表現を思いついた時この映画の寄り処を掴んだ。」6月21日撮影に入る。

 『裸の島』は完成したが、これは余りにもユニークで買い手がつく目算もなく、どこの会社からもNOの返事が返って来た。そして国内ではいつ何処で上映されたか解らないくらいひっそりとした上映だった。
 昭和36年7月モスクワ国際映画祭へ出品される。7月9日開催式、翌10日上映(“新藤兼人モスクア日記”より)

 上映が終わるや満場の拍手だった。鳴り止まぬ拍手が私の耳に嵐の様に打った。“クロダは偉大なキャメラマンだ”“ハヤシの音楽が素晴しい”とほめた。そしてこの映画の人間たちは何も話さないが大象の耳にあらゆる事を話しかけてくると云った。
 映画祭でよもや売れるということは思いもしなかったので1人で来たのだが、世界中の業者が我も我もと契約を結びに殺到した。ブルガリヤの業者が買いたいと云って来た、アルゼンチンの業者は南米9ヶ国の権利を買いたいと云う。1ヶ国千ドルだ。ベルギーの業者が来た。インドが、スイスが来た。フランスの業者がフランスとイタリア地域を買うと云う。私は思いがけない現象に驚いた。チャンスを逃してはならない。各国の業者と交渉のたびに各国の通訳の屯している部屋に行って協力を求め契約した。小さな国が千ドル、フランスの業者には3万ドルと云う相場だった。1ドル360円の時代である。1万ドル売れば3千600万円、私は商売に没頭した。契約する毎に、これはスタジオの借金、これは…、これは…、と私は叫びたくなる様に狂喜し近代映協の人達に売れてるぞ、また売れたぞと叫びかけ乍らサインをした。
 借金が払える。解散しなくてすむ、近代映協は潰れなくてすむ……。モスクワ最後の日、輸出入公団に呼ばれて行った。なんと2万5000ドルで『裸の島』を買いたいと云う、何と云う事だ、幸運は次から次と向うからやって来た。最終的には世界63ヶ国に売れて近代映画協会にとって起死回生の一打となった。」
7月23日映画祭最終日グランプリ受賞、映画祭は終わった。

 ベルリン国際映画祭セルズニック銀賞、メルボルン国際映画祭グランプリ、リール国際映画祭グランプリ、イタリー国際映画祭グランプリ、ウイーン国際映画祭芸術劇場連盟最高賞、マンハイム国際映画祭国際最優秀賞、リスボン国際映画祭銀賞、メキシコ国際映画祭名誉賞、ベルギーシネマクラブ連盟賞、フランス・ウ゛クトワール(勝利賞)アジア13ヶ国、アフリカ6ヶ国、ヨーロッパ、ソ連29ヶ国、オセアニア2ヶ国、 アメリカ、カナダ、中南米13ヶ国、計63ヶ国へ輸出。

 昭和34年映画人口は11億人とピークに達したが昭和44年には2億人台迄に減少。映画界はTVの猛烈な伸び方に大きな打撃を受け、自社の興行システムを守る為と2本立、3本立の乱作に入り観客の減少と制作費の縮小により経営は厳しくなる。近代映画協会はそれを『裸の島』で徹底した低予算方式で乗り切って、日本映画の芸術的水準を維持されたのである。つまり新しいすぐれた作家たちは映画産業の凋落にも、自分の創りたい映画を創る道をつくり出して行く。

丸茂 孝小林正樹監督
『人間の条件』昭和34年ウ゛ェネチア国際映画祭サン・ジョルジュ賞
『切腹』昭和37年『怪談』昭和39年カンヌ国際映画祭審査員特別賞
『上意討』昭和46年ウ゛ェネチア国際映画祭批評家連盟賞

勅使河原宏監督
『砂の女』昭和39年カンヌ国際映画祭審査員特別賞

今井正監督
『純愛物語』昭和33年ベルリン国際映画祭監督賞
『武士道残酷物語』昭和38年ベルリン国際映画祭グランプリ

家城巳代治監督
『異母兄弟』昭和33年チェコスロバキア国際映画祭映画祭グランプリ
『裸の太陽』昭和34年ベルリン国際映画祭青年文化賞

羽仁進監督
『不良少年』昭和36年マンハイム国際映画祭金賞
『彼女と彼』昭和39年ベルリン国際映画祭特別賞

 フランスの評論家ジルシュ・サドウルは書いている「新藤兼人はフランスで『原爆の子』で知られているが、それを遥かにうわまわる傑作を創り上げた。これが『裸の島』である。彼は『裸の島』で日本の偉人たちの中にランクされる。彼は先輩溝口、衣笠、さらにライバル黒澤と肩を並べている。彼は偉大な映画人の第一線に位いする人だ。」
 映画美術が映画の為の被写体を創る事にあって、画家である私は自分の映像は自分で撮りたい欲求が常にあって、ある機会に電通からコマーシャルフイルム美術指導を依頼され、ここでは自分の表現したいイメージが映像として自分で撮れる魅力にひかれ非常に興味を持って色々制作したが、CMは所詮広告と云う壁にぶつかり、記録映画、ドキュメンタリー映画に挑戦する。 ドキュメント『路上』を企画制作、『交叉点』を企画制作演出。その他多数の作品を手掛ける。

 私はある転機によって絵画の道に戻り、絵のモチーフを求めて10数回ヨーロッッパ諸国を廻るうち映画ジャーナリストとの交遊の中で、特に感じた事は彼等の「映画は芸術である」と云う認識の強さです。先のウ゛ェネチア映画祭で溝口作品『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』の連続受賞に対するフランスの有名映画研究誌カイエ・デュ・シネマの溝口評は熱狂的なもので今でも語り草になっていて、溝口作品の回顧上映を求める声は絶えず、没後50年に渉って先の受賞作を含め『赤線地帯』までの6年間に撮った12本の作品の回顧上映を計りその全てが絶対的な傑作であり、此の様な卓越したレベルを維持し続けた映画作家は世界に居ないと絶賛。今の映画を志す若者の心の中にミゾグチは生き続けていると云う事です。又新藤兼人も『裸の島』で名声を高めた。
 イギリスではエジンバラ国際映画祭は映画を他の古い伝統をもつ“芸術”と同水準に引き上げるために、エジンバラ公の主催により、映画を新しい“芸術”として優れた作品を捜す事を目的とした非コンクールとして開催されている。 世界的信望を得て最も権威のある国際映画祭である。我が国の受賞は『雨月物語』(昭和30年)、ドキュメント『路上』(昭和35年)である。又イタリアの人民映画祭で『路上』は審査員特別賞(尺数が規定以上のため)を受賞。此の様に日本映画はヨーロッパ諸国では世界最高の芸術映画国とされて居るのである。

 私が映画界を離れてすでに30数年、全く映画とは没交渉でここまで此の原稿を書いて来たが、先日街の書店で偶然「日本映画崩壊」(著者斎藤守彦、映画ジャーナリスト)と云う本を見付け一読、現在の日本映画界の実情を知って驚愕、唖然としてしまった。映画は現実の日本の政治、経済、社会の状況を反映するもので、日本映画が面白くないという事は現在の日本の文化状況が面白くない事の証明であり、文化行政が一番遅れている。

 私が文化庁の予算係に現在の文化予算を問い合わせた処、1,018億円との事で、余りに小額なのに驚き他の国の文化予算を聞いたところ、韓国の文化予算がなんと7,128億円、国家予算に占める比率で云えば日本は韓国の7分の1です。フランスは5,300億円、アメリカは国の予算は少なく民間の寄付で運営しているという事、全く日本文化行政の貧困さに驚くばかりです。日本映画の問題は国の問題であり、日本の政治家は映画と云うものを、何と考えているのか、ヨーロッパ諸国では日本は世界最高の芸術映画国と称賛されている事など、全く知らないのではないか?世界一の芸術映画国であると信じていた私にとって、今日の日本映画界の現状を知って全く茫然自失の状態です。これは文化行政の問題であり日本の政治家が映画に対して如何に無関心であるか。日本の文化行政の問題として解決して行かねば日本映画は崩壊していくでしょう、すでに崩壊しているのである。

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