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すけっち
通信8(2009.5)

『東宝特撮の黎明』 〜井上泰幸デザイナーインタビュー〜

――「ゴジラ」は1954年(昭和29年)に東宝撮影所で誕生し、その後長きに渡ってシリーズ化され不動の人気を築くことになります。特殊技術を担当した円谷英二監督は当時53歳でした。その時井上さんは31歳の若さで特撮セットデザインを任され、「日本海大海戦」(1969年)までの約15年間円谷監督作品の特撮美術を一貫して支え続けることになります。まず、特撮映画に足を踏み入れた経緯をお聞かせください。

井上 「大学で家具のデザインを勉強していたのですが、近所にあった新東宝で戦争映画の模型作りを手伝ったことがこの世界に入るきっかけでした。ゴジラの立ち上げの時には特撮班はまだきちんとした組織もなく、デザイナーとして渡辺明さんがいたのですがそこに応援という形で参加しました。最初は美術部内での分業も決まりごとはなかったので入江(義夫)さんと私で次々と図面を書きましたね。ミニチュアの基本スケールは25分の1に決めたのですが、場面によっていろいろスケールを変えています。例えば国会議事堂は25だとゴジラに比べて大きすぎてしまうので33分の1にしています。それまで誰も経験したことのない撮影の連続でしたからたいへんなことも多かったですが、これほど面白い仕事があるのかと次第にのめり込みましたね。」

ミニチュアを作っているという意識はない
注意を払ったのはセットに空気の層を取り込むこと

――「ゴジラ」の大ヒットを受けて東宝は特撮を必要とする映画を毎年作り続けることになります。怪獣映画、戦争映画、SF映画、歴史映画、災害スペクタクル映画など様々な分野の映像をミニチュア主体で撮影していますが、どんなジャンルでも作り手が本気で取り組んだ気迫が画面から伝わってきます。特撮セットを製作する上で特にこだわったところは何でしょうか?

井上 「私の中ではミニチュアを作っているという意識はなく、どんなセットでも本物を再現するという意気込みでやっています。54年「ゴジラ」の銀座や国会議事堂にしても、84年「ゴジラ」の新宿副都心にしても特撮ステージにいるゴジラではなく、実在する都市に現れた巨大生物を撮影する気持ちで作っていますね。ですから怪獣映画であっても子供向けという感覚はありませんでした。どの映画でも美術の心構えは一緒です。建て込みで最も注意を払ったのはセットに空気の層を取り込むことですね。」

――後輩の私たちにとって井上さんの仕事へのこだわりと厳しさは有名です。どこまでセットの作り込みを追及するかという判断は美術助手だった頃から井上さんに委ねられていたのですか?

井上 「そうですね。徹夜で飾りこみをしているときには円谷さんも渡辺さんもいませんから、私が助手といっしょに最後まで張り付いて仕上げを完成させていました。ですからのちに一本立ちしてからも肩書きが変わっただけでやる仕事は何も変わりありませんでしたね。徹夜作業もそれほど助手に無理をさせたつもりはないのですが、なにしろ大人数をまとめて次々セットを完成しなくてはいけませんから憎まれ役を買う覚悟でやっていました。事あるごとに会社とも衝突したし、円谷さんからそこまでやらなくてもいいと諫められたこともありました。下見に来た円谷さんがセットを立派に作りすぎだと不満げだった時がありましたが、撮り終わったときにはたいそうご機嫌でしたよ。」

東宝大プールはイタリアのチネチッタ撮影所を参考に水を貯めるだけでも大変な予算だが、欠かせないものに

――その徹底的なミニチュアセットの完成度が円谷特撮の売りとなり、日本発の特撮映画が世界市場に広がっていきます。ハリウッドスターが日本の怪獣映画に出演した時代があった事が今では驚きですが、作り手として世界シェアを意識することはありましたか?

井上 「社内で特撮の評価が上がって円谷さんが一番喜んでいたと思いますよ。でも私たちは次から次に仕事に追われていましたから、そこまで意識する余裕はありませんでしたね。自分たち美術が特撮セットを作っているという自負はありましたが、外国で当たったからといって撮影所内での待遇が特に良くなるということもありませんでしたから。」

――井上さんが設計を担当した東宝大プールは「太平洋の嵐」(1960年)のために建設され、2004年の取り壊しまで40年以上に渡り東宝特撮映画にとって無くてはならない財産として多くの作品に貢献しました。建設当時のいきさつなどをお聞かせ下さい。

井上 「イタリアのチネチッタ撮影所のプールを参考にして設計したのですが、当初は撮影所の敷地をはみ出す大きさで図面を引いたんです。私はこの機会に周辺の土地を買えばいいというつもりだったのですが、どうしても敷地内に収めてくれと頼まれましてミニチュアのスケールを全体縮小して真珠湾のオープンセットを製作しました。当時は海外ロケハンに行くわけにもいかず海図をもとに地形の忠実な再現を試みました。後に円谷さんがハワイに行かれて、実にそっくりだったと感心していましたよ。予算をかけて作っただけの手ごたえは上層部も現場スタッフも感じていたと思います。水を貯めるだけでも大変な予算でしたが、それ以降大プールでの撮影は円谷組に欠かせないものになりましたね。二種類の波起こし機は後々の特撮映画でも使うことを想定して設計したのですが、十分効果的な撮影が出来たと思います。」

円谷さんは発想豊かな人
とにかく東宝の大道具の腕は一流だった

――東宝の特撮映画では驚くべき映像が作品ごとに生み出されています。あの手この手で斬新なミニチュア破壊シーンが登場しますがそのアイデアの源はどこにあるのでしょうか?また、撮影で苦労されたところはどういうところですか?

井上 「何しろ円谷さんは発想豊かな人で思いつきが多いんです。それを具体化していくのが美術の役割でした。円谷さんから私のところに注文が来るのですが、相談できる人もいませんから自分なりの理論と読みで設計していましたね。「空の大怪獣ラドン」と「日本誕生」での火山の噴火はオープンセットで本当の溶鉄をセット裏から流しましたが、思いのほか重さがあって予定外のコースに流れたり、舞台の荷重が熱で燃え上がったりと大変でした。それから水落としはずいぶん多く手がけましたね。「白夫人の妖恋」、「地球防衛軍」、「モスラ」、「妖星ゴラス」と作品ごとに経験を積んで研究しましたが、スロープの角度と水の量が重要なポイントでしたね。「海底軍艦」でのビル街陥没シーンは東宝の仕事の中でも最大規模の崩壊のセットでした。7尺高の荷重の支柱を時間差を作ってワイヤーで引き倒す仕掛けを組んでテストをやり、本番は一回勝負でうまく行きました。こういう大仕掛けは大道具の担当で、他の部署から意見やアイデアをもらうことはなかったですよ。とにかく東宝の大道具の腕は一流でしたね。それから水落としタンクなど装置の金属加工は機械工作担当の飯島(周治郎)さんが素晴らしい技術を持っていました。モスラ幼虫の動きの仕掛けなども飯島さんの仕事です。ほかにも特殊美術課の中には木工、石膏、背景、造型、電飾など分かれていて、それぞれ腕のいい職人がいっぱいいました。美術助手の中では特に青木(利郎)君が私の片腕として大活躍してくれましたね。」

円谷さんの発想は誰にも真似できない才覚
アイデアはどれも円谷さんのひらめき

――円谷監督の存在なしに東宝特撮の黄金時代はなかったと思いますが、それを支えた多くの技術者の力の集積があればこそということですね。優秀なリーダーのもとには優秀な人材が集まるという話は映画界でもよく聞くことですが、円谷監督ならではの優れた才能はどこにあったのでしょうか?

井上 「あれだけの発想がどんどん出てくるところは誰にも真似できない大変な才覚ですね。例えば水槽に絵の具をたらして雲や爆発を撮る発想や寒天を敷き詰めてロングショットの海を表現するアイデアはどれも円谷さんのひらめきです。蝋細工で作った鉄塔や戦車の模型にライトを当てて溶かす撮影も円谷さん。それから「宇宙大戦争」では床下から圧搾空気を吹き出して軽く作ったビルを吹き飛ばしたり、逆に「世界大戦争」の時にはセットごと逆さまにして火炎が地上を這う様を描いたりと全部円谷さんが言い出した撮影方法です。助手の頃は私の言葉足らずで円谷さんを怒らせたこともありましたが、晩年は信頼してもらい私のやりたいように任せてくれましたね。明治生まれの頑固な方でしたからね、具合が悪そうな時にも一切周りに気づかれないように振舞っていたことを覚えています。」

――井上さんがデザインした怪獣やメカニックを教えてください。

井上 「ゴジラシリーズではエビラ、カマキラス、クモンガ、へドラなどです。テレビの「ウルトラQ」でも円谷さんから頼まれて4本やりましたが、ゴメスやリトラのデザインを描きました。「サンダ対ガイラ」のメーサー車は基本プランだけ私が出して、あとは美術助手の豊島(睦)君にやってもらいました。模型の製作は木(明法)君が担当したのですがそれまでにない強い光源を仕込むことになったので、作りの都合とデザインをすり合わせながら形にして行きましたね。この頃にはみんな腕を上げていましたから各部充実した仕事が出来るようになりました。「緯度0大作戦」のアルファー号は私で黒鮫号は豊島君。「怪獣総進撃」のSY-3号はこれも豊島君の設計でしたね。」

円谷さんの撮り方はだいたい見当がついた
自分で描いた絵コンテは誰にも見せたことがない

――今回見せていただいた厖大な資料の中で、各シーンのデザイン画に加えて井上さんご自身で描かれた絵コンテがたくさんあり驚きました。私たちの常識では特撮の絵コンテは監督が出すもので、デザイナーはそれを基にして美術プランを出すものだ思っていましたから。

井上 「これは自分でセットプランと予算を出すための参考用なので誰にも見せたことがないんです。監督やメインスタッフはもちろんのこと美術部内でも見た人間はいないはずです。」

――にもかかわらず、完成した映画のカット割りとほとんど差がないところに一段と驚かされるのですが。

井上 「円谷さんとは長いですからどういう撮り方になるかはだいたい見当がつきました。それに監督の撮影コンテを待っていたらとても準備が間に合いませんから、台本を受け取った段階で自分なりにコンテを描いていました。「日本海大海戦」の時には私が描いた絵コンテを円谷さんが見つけて、もう出来てるじゃないかと言って借りて行きましたよ。」

映画に限らず展示やテレビの仕事もやった
監督が喜んでくれれば仕事冥利に尽きる

――東宝特撮映画を数多く製作した田中友幸プロデューサーについてお聞きします。本多猪四郎監督、円谷英二特技監督とともにゴジラシリーズをはじめとする東宝特撮映画の生みの親とも言える田中プロデューサーですが、特撮スタッフから見た印象はいかがでしたか?

井上 「田中さんは会社の重役ですから特撮の現場にはめったに現れませんでしたし、円谷さんの時代には私たちが直接話をする機会もほとんどありませんでしたが、こういうジャンルがお好きだったから特撮映画を作り続けられたのだと思いますね。円谷さんが1970年に亡くなられたあと、田中さんから後継者を育てたいという相談がありまして「日本沈没」(1973年)を引き受けました。」

――この「日本沈没」が記録的な大ヒットとなり、東宝はまた毎年特撮映画を作るようになります。田中プロデューサー製作の「ノストラダムスの大予言」「東京湾炎上」「地震列島」「連合艦隊」「ゴジラ(84年)」「竹取物語」と井上さんが特撮美術を担当されていますが、他の会社の仕事も出来たのですか?

井上 「1971年に東宝を辞めてアルファ企画という自分の会社を立ち上げてからは、映画に限らず展示の仕事やテレビの作り物など幅広くやっていましたね。ピープロの作品、東映の戦隊シリーズや「宇宙からのメッセージ」のミニチュアも作りました。映画デザイナーとしては東映の「二百三高地」や大映の「首都消失」なども特撮は東宝で請けた仕事でした。それから「元の理」という作品は商業映画とは違って印象深い仕事でしたね。」

――特撮映画において二人の監督がそれぞれ別の組を率いて一本の作品を作るというシステムは本多監督・円谷特技監督コンビによって始まり、その見事なチームワークで大成功を収めて日本における特撮班のスタイルを確立させていきます。ところがその後の特撮映画ではうまく関係性を作れなかったケースも少なからず見受けられるのですが、本多・円谷コンビがうまく行った理由は何だと思われますか?

井上 「本多監督は温厚な方でね、そのお人柄でいろんなことがうまく行っていたと思いますね。本多さんが常に先輩の円谷さんを立てていましたよ。お互いを尊重しあって全体が盛り上がるような演出をお二人とも心がけていたのではないでしょうか。本多さんは「サンダ対ガイラ」のときに特撮の出来をとても喜んでくれましてね、仕事冥利に尽きる思いでした。」

――本日は貴重なお話をありがとうございました。 (インタビュー、三池敏夫)


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