HOMEへ戻る HOMEへ戻る MAIL お問い合わせ セクションペーパー
ニュース&トピックス 美術監督協会 映画美術スタッフ塾 リレーエッセイ 準会員のつぶやき すけっちBOOK 寄稿 賛助会員
寄稿
千葉一彦
金勝浩一
金勝浩一
櫻木 晶
林隆
大澤哲三
金田克美
丸山裕司
中岡陽子
出川三男
岡村匡一
松本知恵
井上泰幸
丸茂孝
今井司
室岡秀信
中林啓治
和田洋
井川徳道
大嶋修一
丸山裕司
竹内公一
種田陽平
内田哲也
岡村匡一
井川徳道
稲垣尚夫
愛甲悦子
井上章
※★マークはページを印刷できません
美術監督協会


HOME > 寄稿 > 林 隆
 
すけっち
通信10(2010.12)

撮影所育ち 金田 克美

「海はみていた」(熊井啓監督)
オープンセット建込現場
 木村先生との出会いは1962年TBSのAスタジオでの事でした。当時美校生のアルバイト実習でスタジオ内を美術進行の助手の助手で走り回っていた頃でした。当時生番組で放送されていた「日真名氏飛び出す」という番組で、その番組に付いていた時でした。この番組のデザインを担当していた木村先生は毎週放送日の1日だけスタジオに姿を見せてドライリハーサルから夕方の放送の終了まで番組に立ちあっていました。休憩時間には来週放送分の台本を読み新規セットが出るとその場でセットデザインを仕上げ美術進行と打ち合わせをしていました。毎週お会いした為顔を覚えてくれて何度かお話を伺ったこともありました。この「日真名氏飛び出す」も放送終了となり、後番組として「泣くなマックス」という番組が新たに放送されました。この番組も先生のデザインで毎週一回の生放送でした。私は1962年2月から1963年3月まで夜になるとTBSのスタジオを駈けずり廻っていたことを思い出します。そんな中、木村先生が「映画やりたいか」と言った一言が今の私ではないかと思っています。日活撮影所のデザイナー室に欠員があるのでよかったら試験を受けてみないかとのお話でした。美校の友人二人は松竹撮影所の美術助手として就職がきまっていたのでチャンスがきたことを察知し、その場で即答、受験の運びとなり、1963年3月初旬初めて日活撮影所の門をくぐり試験を受け無事入社することが出来ました。

1963年4月入社し初めての仕事で木村先生の助手に付けるかと思っていましたが、最初からは付けませんでした。入社時の日活撮影所デザイナー室は先生と呼んでいたデザイナーが4人いました。小池一美先生、松山崇先生、中村公彦先生それに木村威夫先生でした。その他に8名のデザイナーと12名の助手で構成され助手がどの組に付くかは助手会で編成することになっていました。今思うと12名全員のデザイナーに付けたことは非常によかったと思います。偶然かどうかは定かではありませんが木村先生の助手に付いたのはずっと後の1967年製作の舛田利雄監督:石原裕次郎主演の「昭和のいのち」でした。当時の日活撮影所デザイナー室は今に思うと映画美術を学ぶ学校のような場所であったように感じます。デザイナーも助手の先輩も別の組に付いていても調べ物があれば資料の貸し借り、建込みや準備段階の装置、装飾との折衝の仕方から撮影現場での美術助手の動き方まで良き先輩のもとで学んできたことが財産となっている事を思い出されます。

<撮影所は映画を作る学校だった>

当時のデザイナーはオーバーラップして作品に付いていたので非常に忙しく木村先生の印象は、図面の整書は助手の仕事で先生がラフ図面の説明を助手の背中でしているうちに大まかな説明が終わり確認の為振り向くとそこには先生はもう居ない事は日常の出来事でした。デザイナーの忙しさもありますが決してじっと一箇所に落ち着いていない先生でした。撮影中のロケ現場の前を次の作品のロケハンで通り過ぎ思わず車の窓から顔を隠したといった事等は後年になってエピソードとして話されていたました。

飲食のマナーも教えて貰いました。コーヒーの飲み方から洋食、丼物、蕎麦の食べ方等々数え切れないほどの思い出が詰まっています。毎年恒例の正月4日木村邸での新年会に助手達が招かれ、その席での酔っ払い騒動は余りにも助手のマナーの悪さに木村邸を追い出される不始末もありました。

1975年代に入ると先生の映画美術の傾向も鈴木清順監督との作品で変わってきたように思います。「肉体の門」・「東京流れ者」・「関東無宿」いずれも鈴木清順監督ですが、一部の映画評論家には理解出来なかったような書き方もあったように思われます。他の撮影所のデザイナーとの間でも木村さんの『肉体の門』「あれはないよ、あの美術は何だ」と激論を交わしている場面に出会ったこともありました。
やがて日活も路線を変えてロマンポルノの製作に入ります。ここで先生は日活を去ることになります。ここから先生の表現の幅が広がってきたように思われます。今までにも大映時代の「或る女」・「春琴物語」「雁」等で本領発揮していますが「天平の甍」・サンダカン八番娼館」・「親鸞 白 い道」「海と毒薬」等リアルな作品から「ツィゴイネルワイゼン」・「スリ」・「父と暮らせば」・「オペレッタ・狸御殿」「紙屋悦子の青春」等は木村美学がユニークに広がっているように思われます。 

私は1980年より美術管理に異動し木村先生と接する機会が一時なくなりましたが先生が日活撮影所で仕事をする時には予算管理面で先生の仕事に係わることになりました。「愛する」・「日本の黒い夏 冤罪」・「海は見ていた」等、年々先生の仕事の深さを私なりに感じるようになりました。“夢の途中”で開催された、川崎市民ミュジアムでの企画展示「夢幻巡礼 映画美術監督木村威夫の世界」でそれらが立証されることになる訳です。
映画監督第1回作品はこの展示セットを利用して撮った「夢幻彷徨」ですが、ここからが「木村威夫の世界」の不思議な魔術が現れて来る訳です。「街」OLD SALMON 海をみつめて 過ぎた時間」・「なつかしき哉 故郷(短編映像)」・「馬頭琴夜想曲」・長編劇映画「夢のまにまに」・長編劇映画「黄金花」と矢継ぎ早に作品を発表してきました。どの作品も限られた予算と時間の中で持ち前のイマジネーションで新たな映像を具現化してきたことは映画美術を志す美術助手達に映画美術の未来像に全身を込めて訴えているように感じ取れます。
日活芸術学院学院長として教壇に立ち話していたことは、「表現することに恐れず、前に進め」と全身迫力ある口調で訴えていました。 生前入院先のベッドでは次回作のシナリオを執筆中でプロデューサーやスタッフが病室に集まり映画会社の企画室の様な雰囲気でした。傍らのテーブルには本人執筆の原作「裏話ひとつ 映画人生九十年」や資料、原稿用紙が散乱し、自宅の書斎と何ら変わらぬ様相で病院の医師や看護師にその迫力を魅せ付けていました。

この夏日活芸術学院の夏休みを利用して次回作を撮ろうと、熱っぽくエネルギュッシュに話し続けていた姿は、肉体は滅びても精神は少年のような清らかで夢溢れる未来がそこにあることを確信していたからだと思いました。「私は60歳にして生まれ変わった。60歳が0歳と決めた。だから今30才だ」と90歳の時に言っていました。最近も4月1日に32歳になるんだイメージが次々と湯水の如く沸いて来るんだこれから忙しくなるぞ。このような言葉を聞いていると、妖怪が冗談を言っている位に捉えていた廻りの我々が如に凡人かを思い知らされる気がしてなりません。

5月21日「木村威夫さんお別れの会」が開かれることになり、会の実行委員会が何度か開かれましたがシンプルで賑やかな会にする事から進めてきました。祭壇を赤で飾り献花は菊の花ではなくカーネーションでいこうといった具合で準備を進め5月21日の当日を迎えることができました。ジーンズ姿で微笑んでいる遺影は“夢の途中”である先生の姿そのままであり、参列者に感銘を与えたことと思います。

48年間お世話になりました。木村先生安らかにお休み下さい。

合 掌
2010年5月30日 記



リンク
サイトマップ
(c)2004-2013,Association of Production Designers in Japan, All rights reserved.