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荒川友美子ほぼ20年の歩み はじめの一歩から

今回、編集部より「特撮の事書いて」とお話を頂きましたが、どうしても筆が進まず、ずーっと悩みました。 現場デビューより約20年。丁度40歳を超え、人生のターニングポイントでもあります。初心を振り返り、 自分の中での整理をつけるためにも、まずはここから。そして「これから活躍する若いスタッフへのメッセージ」という思いで書かせて頂きました。

1985年高校3年生 「受験戦争」真っただ中
 当時、東京芸大受験は共通一次試験を受けなければならなかった。ここで900点取ると絵を描かずして合格だと教えてもらったが、私にはチンプンカンプンだった。
 昭和39年頃から46,7年頃まで、第二次ベビーブームもあり、人口がべらぼうに多 く、何でも「戦争、戦争」と言われた時代。芸大50倍、多摩美デザイン科20〜30倍。
大学合格が全てのゴール。 「燃え尽き症候群」と言われた人も多い。今や【全入生】の時代が来るとは…何てこったい…。ただし、美大は今でも倍率が高いそうだ。

鎌倉美術研究所
通称[かまけん]出会い、学び

[かまけん]とは美大受験用の予備校で、鎌倉駅から小町通り路地にあり、隣は歌手水木一郎邸だった。
かまけん祭にて賞を貰う

小さなアトリエだが合格率はなかなか。小さい故に講師の一言一言が生徒それぞれに、的確に響いてきたのかも知れない。漠然と美大に行きたいと思っていた私に 「卒業してから何がしたいか?」 の問いかけは強烈に響いてきた。この日から、毎日必死に自分に問いかけ続けた。

答え発見!
[インディ・ジョーンズ]メイキング

学校から帰って、何気にテレビをつけると、ジャーンとあの曲と共に流れる映像は、トロッコのミニチュアとハリソンのアップ、背景画の合成。
 ビビビと来るとはこの事だと実感。「私がやりたいのはこれだー!」と確信。小さい頃から暇さえあれば何か造っていた私。ミニチュアに対しての思いは募り、最後まで食い入るように見入った。
今では、悩んだ時に大きな書店に行って一周。と、たまたま目に入った本のタイトルがその答えである事が日常。これは、偶然の一致=シンクロニシティといい、誰にでも起る現象である。強く思えば、はっきりとした形で現れる。

多摩美術大学建築科へ
20年前パソコンは、学校に1台だけ。しかも鍵がかかったガラス張りの向こうに…。触る事すら叶わなかったあの頃。
 映画を創りたいなら映画学校へ行けばいいのでは?と思う方も多いのでしょうが、インターネットも無い時代、田舎の女子校というとてつもなく狭い世界で暮らし、何の情報も入ってこない環境で、この世に映画学校があるなんて想像もできなかった。とりあえず美大に、東京に行けば何か解るかも知れない…の一心で受験。
多摩美のグラフィックデザイン科志望だったが、あまりにも倍率が高いので、後で転科するつもりで、ちょっと低めの建築も平行して受験。 周りからは絶対受かりっこ無いと絶望視されていたが、何とか合格。後にも先にも[かまけん]から建築に行った人はいなかった。
 幼少時代、私の家には人形の[リカちゃん]本人はいなかったのだが、[リカちゃんマンション]等いくつか有り、ブロック、スチレンボードのハウスキットで家を造っていた。実はこの頃から建物好きだったのかもと今は思う。しかし大学の課題で、図面・パース画はどうしても苦手意識が強かった私は、(特に提出の義務は無い)大好きな建築模型を造って、至らない部分をカバーしていた。
 私の祖父は(S.39年没。面識は無い)東 京・神田で『荒川陶業(株)』を経営。つい最近の北京の様に、東京オリンピックの為に街中が建築ラッシュで湧いていた頃、東京駅のタイルを貼っていたそうだ。実は家系的にも建設業界とは縁が深かった。

バイト、課題に明暮れる4年間
建築科は課題を1つでも落とせば即・留年(実際私の学年では、入学時70人いた同級生が、卒業時は24人になった)という厳しい状況で、遊ぶ暇は殆ど無かった。転科試験でデザイン科へ行こうなどという甘い考えは通用せず、このまま卒業まで突っ走るしかなかった。
 大学1年、初めてのバイトは八王子西武で地元の和菓子販売。 とにかく自分に何が出来るか解らず、時給510円でも必死に労働。多摩美学生ヨーロッパツアー、卒業後の生活資金としてこつこつ貯金。

2年からは先輩に呼ばれ、建築会社へ。やはり模型造りは楽しい。
 父から「学費は絶対4年分しか出さない」と宣言される。自分でも学校に5年も6年もいる意味は無い、とにかく早く自立したい思いが強かったので、友人からの誘いも断り、一人で授業に出る事が多かった。結果、単位はバッチリだったが、友人は減った。また、剣道部の先輩が(建築科4名)全て留年していたのに気づき、退部。

バブル/建築業界に危機感
建設ラッシュの真っただ中、建築偽装問題は実はこの頃も色々ささやかれていた。このままこの異常事態が続いたら、最悪殺人事件になるかも…と直感し、じっくり考える事にした。

「卒業してから何がしたいか?」
そうだ、映像に関わる事だった・・・。

総スカンな日々
男女雇用機会均等法が出来たばかりの頃。
 4年、学校からの紹介で各テレビ局を訪問。しかし、どこへ行っても「女はいらない」と一言。バイトですら取ってくれず。
某局では「会長のコネでもあればね…。」さらに某局では「女の人でも芸大なら取るけど、多摩美じゃねぇ…」と、学校差別。結局試験も受けさせてもらえなかった。
 担当 「女の人は5年くらい経ってモノに成りかけた頃にやめちゃうんだよね」
 私  「いえ。私はやめません!」
 担当 「皆、最初はそう言うんだよね」
事実、多い。すぐにやめてしまう女性が多い事は、次に出たいと思っている女性に対しての障害や迷惑になる。人は、まず男とか女とかのくくりで見るんだと実感。
 心の底から悔しかった。何もかも根底から自分を否定された気がした。でも、どうにも出来なかった。差別に対しての関心を持った。  もっと昔の働く女性は、もっと辛く険しい状況を乗り越えてきたのかと、少しだけ理解できた気がした。

それでも食らいつく
 アルバイトニュースで見つけたサトー工芸社で、造形の(主にCM等の着ぐるみ)バイト。
社長は元、円谷プロにいたという方。今でも年賀状のやり取りをさせて頂いている。

救世主はすぐそばに!
 何と、 幼稚園〜大学まで同級生[ミカコ]の多摩美での親友[ヨウコさん]が、映画 『帝都物語』に関わっていたというので、「特撮希望の人がいる」と取り次いでもらった。 彼女水泳、私は剣道。同じ体連部なので、お互い顔は1年の時から知っていた。
「おじいちゃんが美術監督やってるから聞いてみるね」 と、ヨウコさん。
何と![おじいちゃん]=[木村威夫大先生]!!!
再びのシンクロニシティ!

幻の『ジパング』
[ヨウコさん]から「おじいちゃんが『ジパング』って作品やるんだけど、やる?」
と聞かれ、「何でもやる!」と話は決まった。しばら くして「ごめんね。『大霊界2』っていうのに なっちゃったんだけど、良い?」と言われた。 当時、映画は殆ど観ていなかった私でも 『大霊界』は知っていたので、逆に親を説得しやすい。ラッキーだと思い、「やる!何でもやる!」と即決。

大霊界2/死んだらおどろいた
念願の映画、しかも特撮。感動!
大学では半年間卒業制作に取りかかる時期だったが、3か月は映画に集中することにした。
美術監督は池谷仙克氏。池谷さんの周囲では頑張っている女性も多く、差別など全く感じず、雰囲気も良好。 発現場では何もかも解らない事だらけだったが、全てが新鮮で非常に楽しかった。
[建築科]触れ込みだったため、いきなり図面作業ばかり。正直、辛い。
特撮デザイナー藤田泰男氏より、「電柱を書いて」との指令。さすがに戸惑っていると「スケッチ、目測してこい」と言われ、苦戦しながらも何とか乗り切れた。しかし、「霊界の花畑に浮かぶ宮殿3つ」の指令には、一瞬頭が真っ白に。丹波氏の「霊界の本」の挿絵を目を皿のようにして見回し、何とか霊界をイメージ。
バブルが永遠に続くと日本中が狂気に満ちていた頃。建築業界はどんなダメ学生でも欲しがった。親としては大手ゼネコンでも入ってくれれば鼻高々とでも思っていたのでしょう。そんな時代に映画業界に突入して行った娘を理解できる訳も無く、日々夜中帰宅の私に 「いつ電話しても家にいない。遊んでばっかりいやがって!」と怒鳴る父。 親や先生はいつでもストッパーである。たとえ親からボロクソに言われても自分で決めた道。私の場合はこの父の言動に対し、「二度とそんな口きかせない」と逆にパワーになった。
「親のスネをかじる」人たちとは逆に「頼まれたってスネなめてもやんない!」と心に誓い、家を出た。こんなことで潰れるようなら 映画の仕事は出来ないと思う。

丹波哲郎さんに感謝!
今の学生は「丹波さん」と言ってもピンと来ない人が殆ど。丹波さんは、スピリチュアルカウンセラーの江原啓之氏を世に出す 後押しをしたらしい。私は刑事ドラマ「Gメン75'」を観ていた世代なので、お会いできて非常に嬉しかった。 ある日、本編デザインナー(石井巖氏)に、撮影現場に連れて行ってもらった。普段は冗談ばかり飛ばし、足下がおぼつかないような 歩き方をする丹波さんだったが、カチンコがなったとたんにしゃっきっとする姿に、本当のプロの姿を見たようで感動。
 スタッフルームで目前の丹波さんから気軽に「君は何だ?」と話しかけてくれた。「霊界はあるんだ」「現世は修業の場。辛くて当たり前だ」と力説。その言葉がガツーンと響き、「辛くて当たり前なのか・・・(やっぱり)」と、 妙に納得。今まで色々あった事、今後の事を思う時、少し気が軽くなった。作品アップ後、早く次の現場につきたいと思った。

ウルトラQザ・ムービー
卒制も何とか残りの3ヶ月で乗り切り、後は卒業判定を待つだけの頃、友人達は卒業旅行で皆海外へ。 私と言えば「ウルトラQ」のお話を頂き、早速国際放映へ。
私は「ウルトラマン」に夢中だった世代なので、円谷作品に関われるなんて夢のようだし、観ている側から創る立場になった 現実がとても不思議だった。

寒い時期で辛い事もあったが、アイデアの宝庫[特撮]は、楽しくて楽しくて。この20年間中でもこの時が一番楽しんでいたと思う。 現場が和気あいあいとしていた事も◎。
怪獣がものを壊すとき、何をどう壊したいか、壊すきっかけは何かを逆算しながらものを造る。 ここではまず、[怪獣が][踏みつぶす][自動販売機]を造らせてもらった。素材にこだわり、壊れた後もリアルに見える様工夫。 この経験は今でも基本にしている。
初めての現場での思いは、後の仕事に影響する。バイトといえども貴重な歯車。新人にどんな仕事を与えるか、どう接して行くか、 非常に重要な事に感じている。

思考は実現化する
これは成功哲学を解いた[ナポレオン・ヒル]の言葉。私は, 明確な願望を持ち続けると、実現する事を身をもって体験した。 自分の中での本当の成功はまだまだこれから。さまざまな障害に出会っても、これまでの経験と感動を基本に、 目標を明確にし、頑張って行けると思っている。
これまで私に経験と感動を下さった皆様、本当に感謝しています。
これまで私に経験と感動を下さった。
ありがとうございました!

P.S. これから活躍する皆さんへ。
「自分は何がしたいのか」「どうして現場に来たのか」
いつも自問自答してみて下さい。
ブレない思いはどんな障害も突破します。

 


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