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『二〇代の告白(わがままな青春編)』
K.一継


私は昨年十月に林隆氏・福沢勝広氏の推薦をいただき準会員にさせていただきました。
現在は東映東京撮影所、美術部CM営業課に所属し営業マンをしております(34才)。
生まれは信州。善光寺と小布施の中間に位置する、四方を山に囲まれた田舎町で育ちました。

18才で上京し20歳で東映東京撮影所の門をたたきました。
当時「助監督の人手不足で仕事があるので、やってみるか」とお話をいただき、撮影所内にある第二制作部に
あいさつにあがると、そこに私を待ち受けていた方は鈴木部長と美術・安井丸男氏でした。
「君が、美術助手をやってみたいという掛塚君か」と鈴木部長に言われ、「はい?はい!」と二つ返事をしている自分。「助監督の仕事があると聞いてきたのですが」とは反論できず、それから二年間、第二制作部・美術助手としての撮影所生活がスタートするのでした。

今考えると、あの時なぜ私は美術助手の仕事を断らなかったのか?
それは早く映画の現場にスタッフとして付きたいという思い、それだけだったように思います。
しかし現実はそう甘くなく、私の所属した第二制作部はテレビを中心とした制作部で、テレビの現場しかありません。撮影所で映画の製作をしているのは第一制作部であると知るのは二、三ヶ月後のことでした。
それからの二年間「映画の現場に行きたい」という想いはつのる一方で、当時周りには同年代の美術助手もおらず、一人夜な夜な第五、第七ステージ(東映では一番大きなスタジオ)に建つ映画のセットを大戸の外から垣間見ては、スタジオ内に入っていく勇気もなく(笑われてしまうかもしれませんが)造園越しに見える大きなセットの中を見たくて、見たくて仕方なかったことを思い出します(23才)。
その頃、周りのスタッフの方に「カケも第二(制作部)をはなれて、もっといろいろな現場(町場)を見た方が勉強になるぞ」と言われましたが、「早く仕事を覚えろ田舎のおふくろさんに連絡をおこたるな!」
が口癖の第二の鈴木部長の”若手を一人でも育てたい”という私を息子同様にきびしくも温かく見守ってくれるこの人がいなかったら、今の自分はありえないと思い、撮影所を離れることよりも「撮影所に留まり、早く仕事を覚え、一日も早く映画の現場に付きたい」つのる思いはついに爆発しました。

それは、当時、流行っていなかった髪型で自分の存在感をアピールしようというものでした。
髪の色を白髪にして、撮影現場に出たのです。衝撃でした。「あいつは誰だ!?」「なまいきそうな若造だ!」「どうも第二制作部の美術助手らしいぞ」電車にのっても、街をあるいても目立ちます。今から十年前の事です。私なりの映画に対するPassionでした(その想いは今も変わりません。)
噂は、間もなく第一制作部のデザイナー室(今村力氏)にまで届いたのです。
半年後、私は念願の映画の現場に付く機会を得ました。映画「失楽園」でした。美術小澤秀高氏のもとで、映画の題名の如く日々失楽していく自分。やる事なす事すべてダメ出しの日々。三年間も第二(制作)で何をしてきたのか。失意のどん底を味あわせていただきました。ゼロからのスタート!(24才)。
ただ、それからの6年間は、撮影所のデザイナー室に所属し、まさに映画三昧の日々。同年代の美術助手がおらず、作品がクランクアップすると、次の作品の台本が(時には美術打ち合わせ)が2、3日後には控えていました。
当然休みをとる間もなく、次から次へと現場に付かせていただきました。

そんなある日、デザイナー室に同年代の美術助手である、川合重則さんが入ってきたのです。
彼は私よりも一つ年上で温和な性格で、体格もガッチリした男で、私とは正反対。
唯一共通点は”映画とビール”が好き。我々は二人しかいないデザイナー室の美術助手として、
お互い負けじと日々精進し続けました。ある年の暮れ。我々は深夜デザイナー室でデスクを並べていた時、川合チャンが「助手同志で忘年会をやらないか?」と言い出したのです。この突然の提案にはびっくりしましたが、二人のだした結論はこうでした。『台本を交えてしか会えない我々スタッフ。そうでなくて、台本が無くても同じ美術助手として、年に一度くらい会って、飲んで好きなことを言い合って、別れてもいいじゃないか。』直球勝負でした。こういって、川合チャンと私は電話でまだ会ったこともない、初めて話す美術助手(多くは先輩)に声をかけ
年末の(12月29日)美術助手会はスタートしました。(25才)この助手会も2年、3年と会を重ねて行きながら、昨年で8回目を数えますが、助手同志の横のつながりはこれからも徐々に深まっていくものと信じています。

”人の夢も10年”川合チャン(と二人で)始めた助手会も来年で10年。あの頃から「最低10年は続けよう」と笑いながら交わした口約束。時々、大泉の飲み屋でハシゴしては、私の家で倒れたり、フラフラとデザイナー室に戻って行く彼の姿を思い出します。今まで、全国いろいろな地方にロケに行き、その地方の工務店の方々や造園の方にお世話になり、たくさんの方々に支えられ、しんどい現場をやり遂げることができたように思います。
撮影所では装置、装飾の方をはじめ、守衛所のおじさんから毎朝・毎晩声をかけてもらい、私は無事10年という月日をこの撮影所で過ごすことができました。(30才)
私は30才で美術助手から、撮影所の営業マンになることを決心しましたが、それは撮影所の中で美術のスタッフも含め、全スタッフとともに生きていきたいと願う私の唯一のわがままです。(お許しください)

ゼロからのスタート!あれから10年、まだまだ土地土地のお兄貴さんお姐さんにご厄介かけがちになる若造です。撮影所は美術部(二階)の事務所にて、皆様のお越しいただける日を、今か今かとお待ち申し上げております。

 

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