© Association of Production Designers in Japan

美術監督協会について

歴史

HISTORY

Association of Production Designers in Japan

前史(1899-1919)

明治32年(1899)
現存する初期の映画の中に美術と考えられるものは、歌舞伎の実写である『紅葉狩』の舞台装置であろう。 感度の低いフィルムでは、小屋の中では撮影出来ないので歌舞伎座の裏の空き地に、舞台で使った装置 (大道具と呼ばれていた)の一部を組んだもので、書き割りの背景と松の大木の切り出しであった。
明治41年(1908)
今で言う撮影用のステーヂの様なものが出来たのは、吉沢商会が目黒行人坂の地を撮影所とし、50坪の グラスステーヂ(屋根と壁面がガラス貼り)を建てたのに始まり、続いてM・パテー社が大久保百人町に、高い 柱を四隅に立て、開閉出来る様に天幕を張った、オープンステーヂでの太陽光を利用した撮影であった。 装置(セット)は土間にむしろを引き、板台の上に組んでいった。それは芝居小屋の大道具の流用であり、 背景画家による書き割り絵を主としたものであった。福宝社の西日暮里撮影所では、ちかくの芝居小屋の 大道具方江川仁二郎や、背景画家の坂井春信がたづさわり、近くの花見座や住吉座から、装置や飾りものの 小道具を借りて来て撮影した記録がある。
大正3年頃(1914)
その頃各社では、考案部が筋書きで大道具係と背景係に相談して、床に平面現寸で描いたりして、 装置が作っていたのが当分続くのですが、映画の質的な向上や技術の進歩などで、美術もおのずから質の 高い装置が要求される様になり、書き割りより実物の建物と同じ様な、美術設計の平面図や、概念的な スケッチも精度の高さを問われ、 設計の専門家が生れて来た。
大正7年頃(1918)
日活向島で人工光線(アーク使用)の撮影が始められてより昭和初期のタングステン球の使用にいたってダークステージ内での装置(セット)の撮影が主となり需用がました。初期(大正2年)の向島では美術は大道具5名小道具1名であった。
大正8年頃(1919)
この頃森岩雄と共に『活動写真大鑑』を著した、友成用三(後に衣笠監督の”十字路”美術担当)は、 撮影準備の項で『舞台係』として次の様に述べている。『舞台係は脚本が示す舞台の平面を引いたり、 模型を作ったりして所要の道具を大工に建てさせ、又室内の装飾その他を時代故実や流行を精査して、 小道具係に命じて小道具を新調もしくは賃借りして揃え、壁紙や敷物を配置させ、電光線機(スタンド) を据え置き、家内外の舞台をさだめ、総ての手配をしておきます。屋外の舞台も必要な建築物は 室内同様の注意をもって時代に適応した、図面又は模型を示して、新築もしくは改築させる』

映画美術の確立(1920-1934)

大正9年(1920)
初めて美術関係でタイトルに名前が出たのもこの頃で、亀原喜明・尾崎庄太郎の名を見ることが出来る。 亀原は後に日活作品『京屋襟屋』でステーヂ一杯に、銀座の呉服小間物屋を丸ごと建てており、 美術設計者の先達として、後輩をそだてていった。横浜喜楽座の道具係より大活の装置係へ移った尾崎は、 谷崎潤一郎がかかわった『アマチュア倶楽部』や『蛇性の淫』などに名を連ねている。又松竹キネマ蒲田が、 米国より招聘したヘンリー・小谷と同行した装置家のジョージ・チャップマンは、進んだ装置作法等を伝えた。
大正12年頃(1923)
関東大震災により東京の撮影所は潰滅し映画製作の殆どが京都へ移ったが復興は早く新しい設備の撮影所が建ち各分野で人々が仕事をする様になった。その頃盛んになった演劇の世界は多くの舞台装置家を生んだがそれらの人々にも映画は新しい場を提供していった。溝口三郎・田中良・村山知義・吉田謙吉等の装置家が映画の場で活躍し手法等が映画美術に残っていくと共に、大道具方や背景画家の世界よりデザイナー・設計者としての職能が確立されていく歩みが始まった。
昭和4年頃(1929)
美術に関するタイトルや呼び方は年代や各撮影所によって異なり、装置・舞台装置・舞台意匠・舞台設計・ 設計・美術・美術設計等の記載が見付かるのですが、美術監のタイトルが出るまで相当の年月が掛かり、 昭和10年松竹・小津作品までかかった。この間美術学校生の水谷浩が、松竹に入ったのを始め、若い才能が 映画美術にかかわった、金須孝・浜田辰雄・中古智・松山崇等がより高くこの世界を築き上げていった。
昭和9年頃(1934)
各撮影所単位の映画製作では、美術者同志はさして交流が無かったが、映画の質も技術も上がる反面世情も あわただしくなるなか、今までに無い交流が徐徐にできた。小池一美達が集まりだし仕事上の研究会を親睦も 併せて開く様になり、東宝の久保一雄等も加わってグループが出来、それが昭和11年日本映画監督協会の 設立に刺激されて、美術者集団が結集し協会設立の母体となった。

協会設立(1939-現在)

昭和14年(1939)
4/9京橋八重洲園に各撮影所・フリーの美術家30名が出席。『日本映画美術監督協会』を設立。 本部を東京、支部を関西と満州に置き、初代会長北猛夫とし、事務所を小池一美宅とするもしばらくして 西銀座6-5秀吉ビル内に移した。
4/11『日本映画監督協会』・『日本映画作家協会』・『日本カメラマン協会映画美術監督協会』・ 『日本映画俳優協会』の5団体で『全日本映画人評議会』が発足。
6/1『全日本映画人連盟』と改称、『日本映画監督新人協会』が加わる。 美術監督協会より理事・北猛夫、評議員・脇田世根一を選出。
昭和15年(1940)
美術監督協会の活動方針として次の要綱をかかげる。

  1. 1)研究会・座談会・作品批評会等による研究活動。
  2. 2)美術監督の一般的地位向上と発展への運動。
  3. 3)連盟他協会との協力の元に日本映画の質的向上に積極的に参加する。
  4. 4)組織的活動と経済的活動の促進。
昭和18年(1943)
戦時下、昭和14年4月制定された『映画法』他をふまえて映画人連盟一団体として活動を続けていくが、 統制はいよいよ厳しくなり連盟も解散させられる。
昭和20年(1945)
8/15終戦、戦後各撮影所に復員者をふくめて、映画人が戻り、厳しい中で活発に製作に励み新たな出発となる。
昭和22年(1947)
『日本映画技術協会』が各撮影所内をまとめて設立され、美術は『美術委員会』として所属する。 松山崇・浜田辰雄等が尽力し、委員長に北猛夫が選任。 8/4大船撮影所にて技術協会第一回委員会と試写会が開かれ、撮影・照明・美術・録音各会員が70名程が 出席した。 『映画美術第一号』(A5版12頁)発刊。 会員は東宝14名・松竹4名・大映6名 計24名であった。会員総員が会社専属であった。戦後映画の 全盛期をむかえ、撮影所の増設や規模の拡大で美術デザイナーや美術助手は著しく増員されていき又少数の フリーもでてきたので、会員の交流と親睦を主として協会は存続した。
昭和32年(1957)
4/11映画6社(東宝・松竹・大映・東映・日活・新東宝)所属の美術デザイナーと、少数のフリーが 契約とか他の問題等で組織の再結束を図り、再生第一回の総会を開催して会長北猛夫を再選し、事務所を 新宿歌舞伎町にさだめた。
昭和37年(1962)
事務所を世田谷区大蔵の東京美術センターへ移す。
昭和38年(1963)
機関紙『映画美術』(A5版70頁)を出版。会員 東宝11名・松竹14名・大映14名・東映19名・ 日活10名・東京映画3名・フリー17名総会員数85名(内関西支部19名)
昭和39年(1964)
この年より会長と事務局を各撮影所を一年毎の回りもち方式になる。柴田篤二(大映)・浜田辰雄(松竹)・ 進藤誠吾(東映)・松山崇(日活)・北猛夫(東宝)等が歴任した。
昭和48年(1973)
事務所を青山5-6-18に移す。この頃より会長の任期を二年にする。中古智(東宝) 下河原友雄(フリー)・村木与四郎(東宝)・堀安治(東映)・小池一美(フリー)等が歴任するもこの間に 会長・理事長制に変わり理事長に育野重一があたり事務局も担当した。事務所を板橋区東新町1-18-14にす。
昭和61年(1986)
会長 木村威夫、理事長 育野重一の体制となる。
平成3年(1963)
事務所を新宿区新宿御苑ワーロック内に移す。
平成5年(1993)
会長制を改め理事長制とし理事長 横尾嘉良、事務局長 小池清二の体制となり事務所を新宿区新宿2-15-14林ビル2Fに移す。
平成8年(1996)
会員127名、準会員19名、名誉会員2名、顧問4名 総会員152名(内関西支部25名)
平成10年(1998)
有志70名をもって協同組合を結成。理事長 横尾嘉良、副理事長 小池清二、内藤昭(関西)専務理事 井上章で 名称は通産省の指導により『協同組合日本映画・テレビ美術監督協会』とし、会員92名、準会員12名で新発足。 日本映画職能連合7団体は総て法人化される。
平成11年(1999)
協同組合シナリオ協会が映職連に加わり、映職連8団体となる。
平成13年(2001)
会員数74名、準会員10名、特別会員8名、賛助会員24社
平成16年(2004)
会員数78名、準会員6名、特別会員9名、賛助会員25社
平成17年(2005)
会員数85名、準会員12名、特別会員8名、賛助会員27社 4月より新役員体制 理事長 出川三男、副理事長 井川徳道(関西支部)櫻木晶、 専務理事 林 隆
平成20年(2008)
会員数85名 準会員15名、特別会員8名、賛助会員32社
1月現在 理事長 出川三男、 副理事長 井川徳道(関西支部)小澤秀高、 専務理事 内田欣哉
平成23年(2011)
会員数79名 準会員17名、特別会員6名、賛助会員32社
6月現在 理事長 小澤秀高、 副理事長 金田克美 金勝浩一、 専務理事 今井高司
平成25年(2013)
会員数71名 準会員24名、特別会員6名、賛助会員29社
8月現在 理事長 小澤秀高、 副理事長 金田克美 金勝浩一、 専務理事 今井高司
平成30年(2018)
会員数66名 準会員26名、特別会員12名、賛助会員26社
11月現在 理事長 竹内公一、 副理事長 福澤勝広 金勝浩一、 専務理事 今井高司

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